日本では、前線が停滞し、湿度の高い空気と供に
心まで湿ってしまいそうな季節が訪れた。
そんなある休日の事。
梅雨の時期には珍しく、陽射しが降り注ぎ、爽快な青空が広がった。
こんな日は、自然と外へ足が向くものである。
は、ショッピングでも…と思い、街へ繰り出していた。
交差点を渡り終えた所で、車道からクラクションが鳴った。
驚いたは、クラクションの鳴った方角へ視線をやる。
目に留まったのは、他のどの車よりも一層鮮やかに見える、真っ赤なフェラーリだった。
「まさかとは思うけど、こんな車に乗ってるのって…」
の予感は当たった。
路肩に寄せ停車したフェラーリから降りてきたのは
、白のスーツを身に纏い、サングラスをしている。
「、ちょうどそなたを迎えに行こうと思っていた所だ。」
「容保さん…」
容保の派手な登場は、周囲の目を引き、は気恥かしくなった。
一方の容保は、それを気にする様でもなく、話を続けた。
「遠乗りに誘おうと思ったのだが、もしや買い物の途中か?」
「ええ、ちょっと夏物の服を新調しようかと思いまして。」
その言葉を聞いて、容保はにっこりと微笑んだ。
「ならば余が見立ててやろう。」
「………え?」
「なに、遠慮する事はない。」
が言葉を告げる間もなく、容保はをフェラーリに乗せ走り出した。
到着したのは高級ブティックの建ち並ぶ一角だった。
車を降りたは、思わず後退りする。
「どうした?さ、入るぞ。」
「いや、ここじゃちょっと予算が…」
「心配はいらぬ。今日は全て余に任せればよい。」
そう言って、の手を引き店内へと入った。
「いらっしゃいませ、松平様。お待ちしておりました。」
店員がずらりと並び、一斉に容保を出迎える。
改めて、容保が只者ではないと思う瞬間だった。
容保は店員の一人に声をかけ、服を選んでいる。
数点の服を見繕うと、を試着ルームへ案内し、着替える様促した。
目の前に並ぶ高級服に、暫しが躊躇っていると……
「ならば、余が着替えを手伝ってやろうか?」
「………!!いえっ、自分で着替えます!」
羽織っていたジャケットに手を掛けられ、は慌てて答えた。
ならば、着替え終えたら声を掛けてくれ、と容保は試着ルームの外に出ていった。
初夏を思わせる清々しい白のノースリーブワンピースに、
南海を思わせる碧のシースルーのカーディガンを羽織る。
着替えを終えたは、ゆっくりとカーテンを開け、容保の姿を探す。
「ああ、やはりそなたに良く似合う。」
そういうと、容保はの前で膝まづき、手を取るとその甲にそっと唇を寄せた。
「かっ…容保さんっ!?」
「その服はそなたに贈ろう。今日はそれを着て、私と歩いてくれぬか。」
「でも、こんなにして貰っては…」
すると容保は、立ち上がると耳もとでそっと囁いた。
「なに、余と夜も供にしてくれれば、それでよい。」
「………えっ!?」
「………ふっ、冗談だ。」
悪戯っぽく微笑んだ容保は、の手を解放すると、会計を済ませにレジへと向かった。
何処まで冗談か分らない容保の言葉に、の心臓は鳴り止まなかった。
一方、街中の大型書店には、が居た。
仕事で使えそうな専門書を求めに来た…筈だったのだが。
が立ち止まっているのは、漫画の並ぶコーナーだった。
「え〜今月、ここで終わっちゃうの?続きが気になるなぁ…」
「あれ?君?」
思わぬところで声を掛けられ、は驚きのあまり、
手にしていた本を取り落としそうになる。
恐る恐る振り返ると、そこには山南が居た。
「休日に会うなんて珍しいね。君はよくここへ来るのかい?」
「はい。山南さんも…ですか?」
「ああ。ここは専門書の類が多いから、重宝するんだ。」
ふとが山南の手元に目をやると、既に会計を終え
紙袋に入った本が、たくさん抱えられている。
「勉強熱心ですね。」
「いや、対した事じゃないんだけど。気になったら止まらなくてね。…そういう君は?」
山南に持っていた本を覗かれそうになり、は慌てて本を閉じた。
「あ〜私はその、絵の勉強を…」
が顔を上げると、吐息を感じる程の距離に山南の顔がある。
急に縮まった互いの距離を意識し、二人は動けなくなった。
視線を逸らす事も出来ず……
その時、山南が手にしていた紙袋が破れ、
中の本がバサバサと零れ落ち、二人は我に返った。
「凄い量ですね。」
「あまりに重くて、紙袋が耐えられなかったか。」
「……あの、良ければ途中まで、運ぶの手伝いましょうか?」
「いいのかい?じゃあお願いするよ。」
山南は急いで本を拾い集め、駆け寄った店員が用意してくれた新しい紙袋へと詰める。
「じゃあ、運んでもらうお礼に、お茶でも御馳走しようか。」
「え、本当ですか?」
「ああ。折角会えたんだし、もう少し君と一緒に居たいからね。」
「………!!」
そう言って、爽やかに微笑むと、袋を持たない空いている方の手を差し出した。
「さ、行こうか。」
照れているをものともせず、手を繋ぎ歩き出した。
一方は、コンサートホールの前に居た。
手には二枚のチケットを握り締めている。
”蝦夷交響楽団コンサート”
数日前、倶楽部五稜郭から送られてきたものだ。
勿論送り主は榎本であり、チケットにこう書かれた手紙が添えられていた。
”君の友人を誘って鑑賞してくるといい。”
そこでは、やにも声をかけようと思ったのだが、
生憎二人と連絡が取れず誘う事が出来なかった。
「さん、お待たせしました。」
そうに声をかけ走り寄ってきたのは、であった。
彼女もまた、以前この楽団の公演話を倶楽部五稜郭で聞いており、興味を抱いていたのと、
少々楽器の腕に覚えがある事から、の誘いに二つ返事で乗ったのだった。
「あ、もしかしてお化粧してる?」
「は…はい。もしかして変ですか?」
「ううん。可愛い!」
クラシックコンサートともあってか、はいつもよりちょっと可愛いコーディネートに
化粧をしていたので、はいつもと違うを素直に褒めた。
は恥かしそうに俯きながら、の先を歩き出した。
「さ、そんな事より中に入りましょう。」
二人はチケットを切って貰い、ホールの中へと入ると席を探した。
チケットの座席番号をよく見ると、かなり前の方である。
「もしかして結構特等席?」
「これも徳川の財力…のおかげでしょうかね?」
などと、小声で話しながら席につく。
それから程なく、との隣の席にも客がやってきた。
隣に腰掛ける人物を見て、とがほぼ同時に声を上げた。
「榎本さん!?」
「土方さん!!」
榎本はの左隣の席に、土方はの右隣の席へと腰掛けた。
その瞬間、このチケットは、榎本が謀ったのだ、とは悟った。
「偶然……ではないですよね。」
「ああ。今日はよく来てくれたね。
君達と一緒に音楽を聞こうと思っただけで、別に他意はないよ。」
”座席の並び以外は…”という言葉は飲み込んだ。
「土方さんもクラシックに興味があるんですか?」
「……いや、今日は仲間も出演するしな。榎本さんがどうしてもと言って聞かねぇから…」
仲間が出演、という言葉が少々気にかかったが、その場ではあえて触れず話を続けた。
間もなくして、開演の合図のブザーが鳴り、幕が上がった。
楽団員各々が楽器を手にし、自分の持ち場へとスタンバイする。
その中に、見覚えのある人物を見つけ、とは目を丸くする。
その人物は、手に三味線を抱えており、ラベンダーのような美しい長髪を結い上げ、
男とも女とも見分けがつかない妖艶さを醸し出していた。
「や……山崎さん!?」
「どうしてあんな所に…」
その声が聞こえたのか定かではないが、舞台上の山崎は、
こちらに視線を向けると、軽くウィンクを投げかけてきた。
「さすが神出鬼没だ…」
演奏が始まると、その姿は妖艶なものから凛々しいものへと変化した。
奏でる旋律の美しさと、その迫力に圧倒される。
思わず、の口から感嘆の声が漏れた。
その瞬間、は榎本に腕を掴まれ、会場から連れ出されてしまった。
驚いて声も出なかったが、ホールから出た所で榎本に声をかけた。
「まだ演奏が始まったばかりですよ。聞かないんですか?」
しかし、その質問には応じず、榎本は黙ってコンサートホールを後にする。
「榎本さんってば!」
が大声を出したので、榎本は我に返ってを振り返った。
「………すまない。演奏を楽しむつもりで君を誘ったというのに…。」
「一体どうしちゃったんですか?」
榎本は済まなさそうに視線を逸らした。
「君があまりにも山崎君に目と耳を奪われている様子だったから、思わず……ね。」
「山崎さんに……それって。」
榎本の顔色を覗おうとしただったが、それを悟られまいとした榎本が、を抱き寄せた。
「我ながら大人気ないとは思うが、一瞬でも山崎君に君を取られたような気がしたんだ。」
突然の抱擁に、は動揺を隠せなかった。
だが、できるだけ冷静を装い、言葉を紡いだ。
「確かに山崎さんの演奏に感動はしましたけど。それ以上の感情なんて持ったりしませんよ?」
の答えを受けて、榎本は苦笑いする。
「どうする?今の曲が終ったらもう1度ホールに戻るかね?それとも……」
「いいですよ、榎本さんの行きたい場所で。」
「そうかい?では、私の船でクルージングでもしながら食事しようか。」
榎本は腕の中のを解放すると、手を差し伸べた。
は微笑みながらその手を取り、二人で海の方へと歩き出す。
「榎本さんとさん、どうしたんでしょう?」
「さぁな。」
突然の出来事に、何が起きたのか把握できずにいただったが、
次の瞬間自分の置かれた立場を理解した。
隣の土方が、自分の手を握ってきたからだ。
「ちょっ……土方さん、演奏中ですよ。」
「俺は演奏には興味はねぇ。」
反論を続けようと土方の方を向いたが、それより早く土方がの耳もとで囁いた。
「むしろ俺が興味あるのは、お前なんだがな。」
「…………!!」
静まりかえるホールで何を言い出すのか、
周りに聞かれているのではないかと、は焦った。
その様子を、土方は面白そうに眺めている。
「ほら、山崎さんにも見られるし…」
「アイツは今演奏中で、それどころじゃねぇだろ。」
そう言いながら、握った手の指を絡めて、更に言葉を続けた。
「あぁ、俺は見られても構わねぇし、その方が好都合かもしれねぇな。」
最早何を言っても無駄だ…とが感じた瞬間であった。
ホスト姿ではない、普段の彼らの姿を垣間見る事のできた、休日の出来事である。
間もなく、本当の夏が訪れようとしていた。
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